『八甲田山』
先日「午前十時の映画祭」で観に行った『八甲田山』('77)について述べていきたい。
先に新田次郎原作小説『八甲田山死の彷徨』を読んでいたし、加えて、WOWOぷらすと「健さんと八甲田山」での春日太一さんの解説をガッツリ聞きこんでから観に行った。
期待は上がりに上がっていたが、期待を超える感動、達成感(徳島大尉と自分を重ねて、冬の八甲田を踏破した気分になって)、ハラハラ感を味わうことができた。北大路欣也の若かりし精悍な姿も俺にとっては新鮮だった。
以下二点にまとめて、特に印象に残ったことをまとめたい。組織論などについても、そりゃ思う事はあるけど、そんなことは今更俺が述べずともいたるところで述べられているだろうし、割愛。
1.これでもかとコントラストを強調・意識させる
徳島大尉の指揮する弘前三十一連隊と、神田大尉指揮する(実際は指揮を執ることができず、そのため未曾有の大惨事が引き起こされるのだが)青森五連隊の有様というのは対照的だ。
(弘前)少数精鋭・・・(青森)大連隊
(弘前)現地で案内人を頼み迷わず進行・・・(青森)迷いに迷いまくる
(弘前)徳島大尉が厳格に指揮・・・(青森)山田少佐に指揮奪われグダグダに
(弘前)隊員一人が足を負傷しただけ・・・(青森)生還者が数えるほどしかいない
と簡単にいくつかの雪中行軍における対比しただけでも、ハッキリと明暗が分かれて見えるが、それが映像にされると、読書の際の印象よりもこの差がどれほど大きな差のかを思い知らされることになった。
また、コントラストという点で言うと、八甲田山の「白い地獄」の風景と、緒形拳演じる村山伍長の思い出す八甲田山のツツジの風景や、徳島大尉らが思い浮かべる自然やねぶた祭りの風景とが交互にスクリーンに映され、その対比によってそれぞれの色味や熱を一層感じられた。
2.雪山撮影ドキュメンタリとしての側面
八甲田山の映像を撮るために、実際に八甲田山に行く…とどうなるかというと、、そりゃ時代を経て衣服の防寒性が高まってたりしたとて、零下何十度の世界というのは、想像を絶する過酷な世界。当時はヒートテックなんてものはないわけでね、当然。
だから、映画を観ていて「なんて厳しい環境だったんだ…」と、ストーリーの中に没入しての感想が浮かぶのに続けて、「え、こんな環境下で映画の撮影を行ってたんだよね…?!」という驚きやら恐怖やらが追っかけてきて冷や汗かいた。
こういった環境における撮影の過酷さというのは、前に貼った春日太一さんの話の中で語られているから具体的な話は割愛するけど、こういう所がCGの技術が大きく用いられていない映画の魅力なのかなと思った。当然ながら自然の猛威に対して、人間ができることは乏しいわけで。そういった自然への畏怖を生むような映像をどう作るのがいいかっていったら、実際のそれをその場で撮るに尽きるっしょてな話なのかな。すんごい映像だった。。
そして、それに関連して。
俺は(まだ言い切ることはできないけれど)映画に対しては、物語(ストーリー)の部分には重きは置いてないのだと思う。どういう話であれ「どう撮られているか」ということが大事というかね。
だから、物語のネタバレをされたとて、大した痛手じゃないというかね。そういう所を楽しもうかなーと。この物語のネタバレと、それがその映画の面白さなどにどう影響するか、みたいな話はちょうど最近のPOP LIFE:The Podcastと被る~。
#014 21世紀の「映画体験」 Guests: 宇野維正&柴那典, an episode from Spotify on Spotify
『ROMA』感想
今回は昨年(2018年)の映画『ROMA』について。俺はNetflixはまだ未加入で。小倉昭和館で1週間限定上映ということで、仕事終わりに向かって、鑑賞した。
ストーリー自体は非常にささやか、というか。非常に装飾無く個人の有り様を切り取ったな、というタイプのもの。しかしながら、先住民族であるルーツや、家政婦として働いていること、女性としての大変さ、ということが物語の進行に微かに、しかし確実に機能している。
俺が興味を持った、印象に残ったことは大きく3点。
1.相反するものを並べ映している
冒頭からこの特徴は絶えずスクリーン上に現れる。まず、俺がハッとしたのは、クレオが家具屋で破水するシーン。
窓の外では暴動化しているデモが行われている(香港のデモの様子が頭の中で重なった)。また、家具屋の中で1人のデモ参加者が銃殺される。その後、クレオが破水するのだが、これは今から生まれてくる「生」と、「死」を並べ映しているものだと言えよう。
これよりも前のシーンでいうと、新生児室が映されたシーンの直後に、全く間をおかず十字架が映される。これも先述と同様「生」と「死」を並べたものだ。
それ以外には、離婚が子供たちに告げられるシーンの直後、クレオ含めた一家の後ろでは結婚が執り行われている。ここでは「離婚」と「結婚」が並べられている。
また、クレオがフェルミンを探しに行くシーンでは、クレオが水溜りの上に渡された木の板を歩く上空で、人間大砲が打たれて人間が飛んで行っている。「地上」と「上空」という位置的な対比が表されている。
2.示唆性が強い
クレオがフェルミンに妊娠を告げるシーン。前で映されている映画内で戦闘機が(確か)撃墜されていた。これは、以後のクレオの行く末が望まれないものであることを示唆していると言えるのではないか。
また、ぺぺの話は、最後のビーチの所が顕著であるがあまりに示唆性が強い(結局はぺぺが言う通りにはならず、クレオは溺れていた2人の子どもを助けるのだが)。
3.結局、溝は埋まらない
最後、先述の通り、2人を助けてソフィアから「あなたは家族よ!」と言われるクレオであるが、家に帰ると家政婦としてしっかりアレコレと用事を頼まれる。「家族よ!」と言う言葉を放っておきながら、これは…と思うのものの、これが彼女らにとっては「自然」だったのだろうな。
同様にテレサはクレオが破水したため急いで病院に連れていくが、窓口でクレオについて名前以外何も答えることができず、泣く。
「家族だ!」というのはまやかしや、出まかせで言ってるのではないのだろうが、それ以上に深い溝がしっかりと白人の一家と先住民族をルーツにもつクレオとにはあるのであるなあ。
方針と『風と共に去りぬ』
タナソーは自身がホストを務めるPodcastで、「次の『好き』を見つけるコツ」を問われてこのように答えている。
常に新しいものを追いかけること。
それに疲れたら、古いものにアクセスすること。
あるいは、全く別のジャンルにアクセスすること。
#010 Yogee New Waves/アートがなくちゃ生きていけない, an episode from Spotify on Spotify
何であれ、一生涯、その時々の自分が楽しむことができるものを見つけていきたいもので。そして、見つけたものについて、その時々での雑感を認めたいわけで。
noteも使っていて、そこでは「今」世に出された表現に関して四の五のウダウダ言っているのだけど、こちらではかつて世に出された「古いもの」について四の五の言ったりしようかなと(そういう使い分けは無くなるかもしらんけど)。
その嚆矢として、今回は先日「午前十時の映画祭」で観に行った『風と共に去りぬ』(’39)について述べていきたい。
「映画史上に燦然と輝く愛の金字塔」とコピーが付されているけど、見終わって「愛だね~、いや、愛だわ~」という感想には至らなかった。「愛」と呼ぶにはあまりに独りよがりな感情が物語を動かしているように感じられたからだ。オハラのアシュリーに対する想いというのは、「愛」というよりは、「自分が思うように事が進んで行って欲しい気持ち」なのでは、と思えた。オハラは、美貌含めそれを通す力を…「強さ」を…有する女性だと言えることは間違いないが。
…と、のっけからディスり気味だが、約四時間という上映時間、俺は全く退屈しなかった。大きく三点について、雑に述べていきたい。
1.金がかかってる~。
実際、395万7千ドル(当時)という巨額の資金を基に作られたらしいが、色んな要素でその資金力というのを堪能できる。
まずは、オハラを主とした各登場人物の衣装!ファッションに関心の薄い俺ですら、それを追っかけるだけでも楽しかった。レットのスーツもいちいちキマってるよなあ。
そして、セットもお金がかかっとる〜。レットと結婚した後の、家、家具など装飾品は言わずもがなであるが、特にそれを感じたのは、南北戦争最中でのこの家屋炎上シーンと、駅に見渡す限りの戦死者、戦傷病者が並べられているシーンだった。こんだけのエキストラ、どうやって集めんねん、という。圧倒されるばかりだった。
2.結局、題名が全てを物語っているのでは
「風と共に去りぬ」という題名の通り、様々な「風」が全てを連れ去っていく。「風」というのは時間の流れかもしれないし、南北戦争かもしれないが、まあ何にせよ何もかもがオハラの前から消えて行く。
男たち、お金、家族、メラニー…去らぬものといえば、美しい故郷タラの土地だけ。
だから、最後にレットが去った後、タラに帰って考えよ〜っ!ってなったのでは。
一方で、その去りゆくものを掴もうとするオハラの力強さったらない。戦争後に無くなったお金も結婚と事業で盛り返すし。タラの土地も、奪われそうになるところを何とか切り抜けるし。
逞しい女性像が去りゆくものの中で強い筆圧で描かれてるな、と思うばかりだった。
3.人種差別へのまなざし
時代的な理由と、地域的な理由に基づくものか、映画の中で黒人を奴隷として扱う描写が、当然のものとして映し出され、また彼らの言葉は「〜ですだ!」のような言葉で翻訳されており、いかにも差別的な言い回しが採用されている。
そんなことはダメだ!とか言った感想ではなく、ここまで当然のこととして描かれる時代だったのだな、ということとこの感情や姿勢というのはどれほどの濃さで今まで残っているものなのだろうか、ということを思った。
今年、俺は『グリーンブック』、『ブラッククランズマン』という映画を観た。
いずれも黒人差別を内容の中心に据えたもので、それを観たという助走がこの感想が引き出される要因になったことは間違いない(しかも『ブラッククランズマン』には、先述の駅のシーンが挟まれる!)。『風と共に去りぬ』の放映から80年の時が経ったが、その時を経て世に出された映画と交差させながら観ることができたのはラッキーだったなと思うばかりだった。